今から気持ち悪い話をします。
このブログは、私と相方の食べ歩き&旅行ブログですが、
私たちの一番最初の旅行は今から28年前。
高野山でした。
うわっ!思い出話だ!キモチワリー。
ですよね。
でもこれ以上気持ち悪くならないように書きます。
頑張ります。
そういえば、28年前の高野山も船で行ったんですよ。
たしか「さんふらわぁ」っていう船だったな~。
あ!ごめんなさい。
もうしません。
もう思い出話、しません。
コホン。
で、本題。
高野山といえば、有名すぎるお寺ですが、
高野山は、平安時代の初めに弘法大師によって開かれた日本仏教の聖地で、
平成27年には、弘法大師空海が道場を開いてから1200年もの歴史を重ねたそうです。
一応地図を載せておきますが、
高野山は和歌山県北部、周囲を1,000km級の山々に囲まれた、
標高約800mの盆地状の平坦地に位置しています。
100か寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市だとか。
よって、総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく、高野山全体を指し、
お寺といえば、一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、
高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内であり、
高野山全体がお寺なんだそうです。
奥之院
標高800mということですが、
登山道は割としっかりした峠でした。
車好きの方に「峠」なんて言ったら、燃えるものがありますけど、
今回の旅行の目標は「安全に家に帰る」なので、無茶はしません。
普通に運転します。
で、写真は高野山で一番の見どころ
『奥之院』への入り口『一の橋』です。
以下HPより。
最奥には弘法大師の御廟(ごびょう)があり、
正式にはこちらの一の橋から参拝します。
一の橋から御廟まで約2kmの道のりには、おおよそ20万基を超える
諸大名の墓石や、記念碑、慰霊碑の数々が
樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。
「一の橋を超えると、とたんに空気が変わる」と聞いていましたが、
こんな立派な杉の木を見たら、厳かな空気以外なにも感じられなくなります。
そして歴史好きにはたまらない、武将のお墓が並ぶのですが、
見つけられたものすべて撮影してきましたので、
こちらもお楽しみいただければ幸い。
ここは、武田信玄、勝頼
上杉謙信、景勝
高野山に来るまで雨が降っていて、さすが雨男&雨女なんて思っていたんですが、
到着する前に止み、だんだん晴れてきました。
杉の木の間から光芒が差し、雨粒がキラキラと輝き、
ますます神々しくなっていきます。
「中の橋」です。
これでまた一段と聖域に近づいていきます。
中の橋を渡った直後にあるのが「汗かき地蔵」
その隣にあるのが「姿見の井戸」で、
中を覗き込んで、水面に自分の顔が見えなければ、
「3年以内に命を落とす」と言われているそうです。
私は男前なので、こういうものはサッサと覗きます。
無事に自分の顔が見えましたけど、
井戸なので、しばらく雨が降らずに日照りの日が続いたら、
干上がって、姿が見えなかったりするのかもしれませんね。
うちの相方は乙女なので、思った通りビビっていました。
「大丈夫だから、ちゃんと見えるから」
「俺はいいよ、見なくて」
「思ったより小さく見えるけど、ちゃんと見えるから」
「え~…」
「いいから早く見ろ(怒)」
この旅行も5日目ですが、
相方と一緒にいると、カルシウムなんて摂っても摂っても足りません。
こちらは化粧地蔵。
お化粧をしてあげると、美人になれるとか。
でもお化粧ポーチを車の中に置いてきちゃったんですよね。
お願いすることすらできませんでした。
仲良し地蔵。
梵天丸もかくありたい。
豊臣家は、この階段を左に登っていきます。
豊臣家の墓所は、とても広いのですが、
高野山との縁が深かったからとかなんとか。
信長のお墓はコチラ。
秀吉に比べたら驚くくらい小さいのですが、
隣には筒井順慶のお墓もあります。
この二人は仲が良かったのかしら?
御廟橋。
この先は聖域で、弘法大師御廟となります。
大師信仰の中心聖地であり、現在でも肉身をこの世にとどめ、
深い禅定に入られており、
私たちへ救いの手を差し伸べていると言われているそうです。
よって、カメラでの撮影、携帯電話の利用、
ペットの持ち込みは禁止されます。
キチンと一礼してから入りましょう。
御廟をあとにして、来た道を戻りますが、
まだまだ武将のお墓はあります。
パナソニックもありました。
山口の毛利家
薩摩の島津家
他は、紀州徳川家供養塔、大岡越前守供養塔、加賀前田家供養塔、などがあって、
歴史好きにはたまらないと思います。
最奥の聖域に、歴代天皇陵がありましたが、
春日局の供養塔があったのには驚いた。
すごいな、春日局。
壇上伽藍(だんじょうがらん)
見どころの2つ目は、壇上伽藍です。
以下HPより
お大師様が高野山をご開創された折、真っ先に整備へ着手した場所です。
お大師様が実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に
心血を注がれました。その壇上伽藍は(胎蔵曼荼羅)の世界を表していると
言われています。
中門 赤い門
壇上伽藍は、かつて天保14年(1843年)の大火により、
西塔のみを残して焼き尽くされたそうです。
その時に先代の中門も失われましたが、高野山開創1200年を記念して、
170年ぶりに再建されたとか。
広目天(こうもくてん)増長天(ぞうちょうてん)の四天王もまつられています。
三鈷の松(さんこのまつ)
大同元年(806年)弘法大師が唐から帰国される際、日本で密教を広めるのに
相応しい聖地を求めて明州の港から密教法具である三鈷杵を投げました。
帰国後、その三鈷杵を探すとこの松の木にかかっており、
三鈷の松と呼ばれるようになったそうです。
そしてこの松の木の葉は、三枚葉を付けることがあるそうです。
(通常の松は二枚葉)
お守り代わりとして、奥之院などで無償で配っている場合もあるそうです。
六角経蔵
鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、
紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。
現在の建物は昭和9年2月に再建され、経蔵の基壇(きだん)付近のところに
把手があり、これを持って一回りすれば、
一切経を一通り読誦した功徳を得ると言われているそうです。
ならばさっそく!
と把手を持って一回りしていたら、ちょうど反対側にいた人に
「反対ですよ。時計回りに回してください。」と言われてしまいました。
やだもう。
思いっきり笑顔で回しちゃったじゃないか。
金剛峯寺(こんごうぶじ)
正面に見える正門は、金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に
再建されて以来、今日まで建っているそうです。
昔は、この正門を利用できるのは天皇、皇族、高野山の重職だけで、
一般の僧侶は、右の方にある小さな入り口を利用していたそうです。
高野山では門の出入り一つでも、厳しいルールがあったそうですよ。
ここには徳川秀次自刃の間があるようです。
高野山はほかにも見どころがあり、
全部回ると1日じゃ足りないそうですが、
私たちは最低でも見ておいた方がいいと言われる3か所
(奥之院、壇上伽藍、金剛峯寺)を見学してきました。
3か所だけでも4時間弱かかりましたけどね。
他の見どころについてはこちらを参考にしてみてください。
冒頭で、高野山は28年前に来たと書きましたし、
もう一つ言うと、小学生の時に家族で来たこともあるのですが、
まったくちっともぜんぜんどこも覚えていませんでした。
自分の記憶力に驚愕するばかりですが、
思い出話を書かずにすんで良かったわぁ。
ちなみに、スタバの47都道府県ご当地フラッペチーノですが、
9種類目の和歌山県は、こちら。
#30 和歌山 つれもてのもら
みかんシトラスフラッペチーノ
※しつこいですが、飲んでいません。
そしてこの日の宿泊は高野山から1時間弱のところにある、
サンルートイン橋本に宿泊です。
夕食はコンビニ弁当でした。
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